【京都の裏歴史】かつて処刑場だった鴨川・三条河原と六条河原の真実〜主な処刑者と現在の名残〜

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京都の街を南北に流れる鴨川。特に三条大橋や四条大橋の周辺は、春には桜が咲き乱れ、夏には納涼床が並び、等間隔に座るカップルや観光客で昼夜を問わず賑わう、京都を代表する憩いのスポットです。美しい水面と東山の稜線を眺めながら、カフェのコーヒーを片手に散歩をするのは至福の時間と言えるでしょう。

しかし、そんなのどかな鴨川の河原には、現代の平和な風景からは到底想像もつかない「血塗られた裏の顔」があることをご存知でしょうか。

実は、鴨川に面した「三条河原(さんじょうがわら)」「六条河原(ろくじょうがわら)」は、平安時代から江戸時代に至るまで、数多くの罪人や政治犯、そして歴史の敗者たちが命を散らした「日本有数の処刑場」だったのです。

教科書に必ず登場する天下の大泥棒から、悲運の戦国武将、幕末の志士に至るまで、多くの人々の血を吸ってきた鴨川の河原。この記事では、京都の1200年の歴史の暗部である「三条河原」と「六条河原」の真実、そこで命を落とした主な処刑者たち、そして現在もひっそりと街角に残る歴史の名残について、余すところなく詳しく解説していきます。

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なぜ鴨川の河原が処刑場に選ばれたのか?

そもそも、なぜ風光明媚な鴨川の河原が、人々の首を刎ね、晒すための刑場として使われるようになったのでしょうか。それには、平安京という都市の構造と、当時の人々の「死生観」が深く関わっています。

1. 平安京の「境界線」としての鴨川

794年に桓武天皇によって造営された平安京は、現在の京都市街地よりもやや西側に位置していました。当時の平安京の東の限界線(東京極大路=現在の寺町通あたり)のすぐ外側を流れていたのが鴨川です。つまり、当時の鴨川は「都の内側」と「都の外側(異界)」を隔てる明確な境界線でした。

2. 「ケガレ(穢れ)」を嫌う思想

当時の貴族社会では、「死」や「血」は重大なケガレ(穢れ)として強烈に忌み嫌われていました。そのため、都の内側で処刑を行うことは神聖な都を汚す行為とされ、決して許されませんでした。そこで、死のケガレを都に持ち込まず、かつ遺体を川の水に流すこともできる「都の外側の河原」が処刑場や葬送の地(死体を風葬する場所)として選ばれたのです。

3. 見せしめとしての「公開性」

時代が下り、戦国時代や江戸時代になると、東海道の西の起点である三条大橋周辺は、京都に出入りする多くの旅人や商人で行き交う交通の要衝となりました。権力者たちは、この最も人目につく場所で処刑や「晒し首」を行うことで、「権力に逆らうとどうなるか」という強烈な見せしめ(恐怖政治)のメッセージを民衆に植え付けたのです。

【三条河原】の歴史と主な処刑者

現在の三条大橋の周辺に広がる「三条河原」は、特に安土桃山時代から幕末にかけて、天下を揺るがす大事件の舞台となりました。ここで処刑された、あるいは首を晒された代表的な歴史上の人物を見ていきましょう。

石川五右衛門(天下の大泥棒)

三条河原での処刑として最も有名なのが、安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門(いしかわ・ごえもん)です。

文禄3年(1594年)の夏、豊臣秀吉の命により、五右衛門は三条河原で「釜茹で(かまゆで)の刑」という非常に残酷な方法で処刑されました。伝承によれば、煮えたぎる油(または熱湯)が入った大釜に投げ込まれた際、彼は一緒に処刑されることになった幼い我が子を少しでも熱さから守るため、自分の頭上に高く掲げ続けたまま息絶えたと言われています。

彼が秀吉の怒りを買った理由は「秀吉の寝所に忍び込んで暗殺を企てたから」とも、単に「都を荒らす悪党のトップとして見せしめにされたから」とも言われていますが、当時の宣教師の記録にも残るほど、この公開処刑は都の人々に大きな衝撃を与えました。

豊臣秀次と39名の妻妾・子供たち(秀次事件)

三条河原の歴史上、最も悲惨で正視に堪えない事件と言えるのが、文禄4年(1595年)8月2日に引き起こされた「豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)一族の公開処刑」です。

豊臣秀吉の甥であり、一時は関白として秀吉の後継者に指名されていた秀次ですが、秀吉に実子(豊臣秀頼)が誕生したことで関係が悪化。謀反の疑いをかけられた秀次は高野山に追放され、切腹させられます。しかし、秀吉の粛清はそれだけでは終わりませんでした。

秀吉は、秀次の首を三条河原の土壇の上に据え置き、その前で、秀次の正室や側室、まだ幼い若君や姫君など、合計39名もの一族を次々と斬首したのです。 その中には、東国一の美少女と謳われ、秀次の側室になるために山形から上洛して間もなかった最上義光の娘「駒姫(こまひめ・当時15歳)」も含まれていました。名簿に従って一人ずつ首を打たれ、亡骸はその場に掘られた巨大な大穴に無惨に投げ込まれました。

処刑は午後まで続き、鴨川の水は血で真っ赤に染まったと伝わります。遺体が投げ込まれた穴の上には塚が築かれ、あろうことか「悪逆塚(畜生塚)」という墓標が立てられました。権力者の狂気とも言えるこの事件は、京都の町衆の心に深いトラウマを植え付けました。

近藤勇(新選組局長)

時代は大きく下り、幕末の動乱期。京都の治安維持のために刀を振るった新選組の局長・近藤勇(こんどう・いさみ)も、三条河原に縁のある人物です。

鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸へ退却した後に新政府軍に捕縛された近藤は、武蔵国板橋(現在の東京都板橋区)で斬首されました。しかし、かつて京都で尊王攘夷派の志士たちを多数弾圧した近藤に対する新政府(特に長州藩・土佐藩)の憎悪は凄まじく、彼の首はアルコール漬けにされてはるばる京都へと運ばれました。

そして、かつて彼自身が尊攘派の志士たちの首を晒したのと同じこの三条河原の地で、「反逆者」としてさらし首にされたのです。新選組がその名を轟かせた「池田屋事件」の舞台である池田屋は、奇しくもこの三条大橋のすぐ西詰にありました。近藤勇の首は、自分が最も輝いていた舞台のすぐそばで、無念の対面を果たすことになったのです。

【六条河原】の歴史と主な処刑者

三条河原から少し南へ下った場所。現在の五条大橋から正面橋(しょうめんばし)にかけての河原一帯は、かつて「六条河原」と呼ばれていました。実は処刑場としての歴史は三条河原よりも古く、平安時代末期から多くの武将たちがここで露と消えています。

平宗盛・清宗父子(平家滅亡)

源平合戦の最終盤、壇ノ浦の戦いで敗れ捕虜となった平家の総帥・平宗盛(たいらの・むねもり)と、その長男・清宗は、源義経によって鎌倉へ護送された後、再び京都へ送り返される途中の近江国(現在の滋賀県)で斬首されました。その後、彼らの首はこの六条河原に運ばれ、さらし首となりました。栄華を極めた平家の棟梁の悲しい末路でした。

これ以前にも、保元の乱や平治の乱で敗れた源為義、源義平、平忠正といった名だたる武将たちが六条河原で処刑されており、平安から鎌倉時代にかけては、ここはまさに「敗者の終着点」でした。

石田三成・小西行長・安国寺恵瓊(関ヶ原の戦いの敗将)

六条河原で処刑された人物として最も有名なのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成(いしだ・みつなり)です。

徳川家康率いる東軍に敗れた三成は、伊吹山中で捕縛され、大坂や堺を引き回された後、京都の六条河原へと引き立てられました。共に処刑されたのは、キリシタン大名であった小西行長(こにし・ゆきなが)と、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)です。

首を刎ねられた三人の首級は、その後三条河原へと移され、三条大橋のたもとで晒されました。天下分け目の大戦の結末は、この鴨川の河原で最終的な決着を世間に知らしめることとなったのです。

長宗我部盛親(大坂の陣の敗将)

関ヶ原の戦いから15年後、豊臣家が完全に滅亡した大坂の陣(大坂夏の陣)の戦後処理でも、六条河原は血を吸いました。かつて四国を統一した長宗我部氏の最後の当主・長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)です。

豊臣方として奮戦したものの敗れ、京都に潜伏していたところを捕らえられた盛親は、六条河原で斬首されました。かつて四国の覇者であった名門の当主も、時代のうねりの中でこの河原に散ることとなりました。

今も街角に残る「慰霊の名残」を歩く

現在、三条大橋や五条大橋の周辺を歩いても、刑場としての直接的な痕跡や、血生臭い雰囲気を感じることはほとんどありません。きれいに整備された遊歩道では、ジョギングをする人やサギなどの野鳥が羽を休める姿が見られます。

しかし、歴史の傷跡は完全に消え去ったわけではありません。注意深く街を歩けば、無念の死を遂げた人々の魂を慰めるための場所が、現代のビルやネオンの隙間にひっそりと佇んでいるのを見つけることができます。

1. 瑞泉寺(ずいせんじ)〜豊臣秀次一族の菩提を弔う寺〜

三条大橋の西詰から木屋町通を少し南へ歩くと、飲み屋や飲食店が立ち並ぶ繁華街のど真ん中に「瑞泉寺」というお寺があります。

前述した、豊臣秀次と39名の一族が処刑された場所こそが、まさにこのお寺の建つ場所なのです。処刑後、鴨川の氾濫などによって長らく放置され荒れ果てていた彼らの「悪逆塚(畜生塚)」ですが、事件から16年後の慶長16年(1611年)、京都の豪商・角倉了以(すみのくら・りょうい)が高瀬川を開削した際にこの塚を発見しました。

了以は、あまりにも不憫な一族の菩提を永く弔うために、塚を整備して堂宇を建立しました。これが瑞泉寺の始まりです。 現在でも、境内の西南隅には秀次一族の立派な供養塔と、処刑された女性たちや子供たちの小さな五輪塔が整然と並べられており、悲劇の歴史を今に伝えています。春になれば見事な紅梅が咲き誇り、参拝する人々の心を癒やしています。三条に遊びに行く際は、ぜひ一度手を合わせてみてください。

2. 蓮光寺(れんこうじ)〜長宗我部盛親の墓と首斬地蔵〜

六条河原の刑場跡に近い、現在の京都市下京区(富小路通六条下ル)にある「蓮光寺」も、河原の歴史と深く結びついたお寺です。

このお寺の墓地には、六条河原で処刑された長宗我部盛親のお墓がひっそりと残されています。盛親に仕えていた旧臣が、主君の遺骸を密かに引き取ってこの寺に葬ったと伝えられています。

また、蓮光寺には「駒止地蔵(首斬地蔵)」と呼ばれるお地蔵様が安置されています。元々このお地蔵様は、六条河原の刑場のそばに祀られ、死にゆく罪人たちが最後にこのお地蔵様に手を合わせてから処刑台に向かったという伝説が残されています。六条河原の刑場が廃止された後、弘法大師の夢のお告げにより掘り出され、この蓮光寺に移されたと言われています。

3. その後の刑場(粟田口刑場など)

江戸時代に入り、京都の市街地が鴨川の東側へと拡大していくと、鴨川の河原を刑場として使い続けることが衛生面や都市計画の観点から難しくなりました。

そのため、刑場はさらに都の外縁部へと移されていきました。京都の東の入り口である蹴上(けあげ)付近に設けられた「粟田口(あわたぐち)刑場」や、西の円町付近にあった「西土手刑場」などがそれに当たります。粟田口刑場では、幕末までに約1万5千人もの人々が処刑されたと言われており、現在も九条山付近に「粟田口刑場跡」を示す碑や供養塔が残されています。

まとめ:光と影が交差する京都の魅力

いかがでしたでしょうか。私たちが普段何気なく歩き、美しい景色にカメラを向けている京都の鴨川沿いが、日本の歴史上類を見ないほどの血が流された処刑場であったという事実は、少しショッキングかもしれません。

「心霊スポットなのでは?」「夜に歩くのが怖くなった」と感じる方もいるかもしれません。しかし、現在の鴨川はしっかりと護岸工事が施され、当時の地形とは大きく変わっています。何より、瑞泉寺や蓮光寺など、後世の人々が彼らの魂を丁寧に弔い、慰霊を続けてきた歴史の蓄積が、現在の穏やかな鴨川の風景を作り出しています。

京都の本当の魅力は、美しい神社仏閣や華やかな伝統文化という「光」の部分だけではなく、こうした生々しい人間の愛憎や無念、悲劇といった「影」の歴史が、同じ地層の上に積み重なっている点にあります。

次に三条大橋や鴨川の河原を訪れた際は、少しだけ目を閉じて、400年前の景色を想像してみてください。歴史の敗者たちが最後に見たであろう東山の美しい山並みは、きっと今も昔も変わらず、そこに静かに佇んでいるはずです。彼らの魂にそっと手を合わせながら、現代の平和な鴨川の風を感じてみるのも、京都の奥深い歴史の楽しみ方の一つではないでしょうか。

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